だれでも参加できる創作国家グループです。初心者さんも経験者さんも大歓迎です、どんどん雑想しましょう。

二月反乱
基本情報
開戦1926年2月26日
終戦1928年6月6日
反乱地域ポルトガル、ガリシア、バスク、カタルーニャ
講和条約マドリード条約
参加国
ウィーン同盟青年ポルトガル?
バスク聖光会
ガリシア独立連盟
スペイン共産党
イベリア平等連盟
支援国
イギリスソ連
フランスドイツ
イタリア

要因

1923年にポルトガル、バスク地方にて地元の大学生計26人が分国庁舎前にて集団で焼身自殺を行った。この事は報道機関によって国内外に広く伝えられ、これにより国外に亡命していた革命家やイベリア半島の独立支持者達が一斉に帰国、イベリア半島にて独立運動を行った。
この時は同化政策が功をそうし住民の大多数は共感はあれど積極的には支援しないという消極的な対応をとっていた為、鎮圧には時間を要さなかったが1924年にルーゴで行われた独立運動の鎮圧の際に独立支持者問わず無差別に攻撃が加えられ、死者1064人重軽傷者2804人にのぼる大虐殺が行われたことによりイベリア半島内の世論は一揆に独立支持へと傾き独立運動が激化、1926年2月24日の深夜に分国庁舎が占拠され翌25日に独立宣言がなされた事によりウィーン側がイベリアへ出兵、これに呼応する形で武装した市民や離反した兵士によってイベリア独立戦線が結成、26日にウィーン同盟へ宣戦布告を行った事により二月反乱が開戦した。

経過

第一次バルセロナ攻防戦

イベリア平等連盟はバルセロナを占拠し現地にて募兵、一般市民に紛れ込み入り組んだ市街地にてゲリラ戦法を多用した。
これに対してウィーン側はこれ以上の住民の反感を買わないため、接敵した際に必ず銃口を下げて市民であるかどうか確認するよう厳命されていたがこれによって平等連盟に一歩的に撃たれるという事が相次ぎ、派遣された二師団のうち36%が喪失するという大打撃を受け、現地の将校らは個別の確認の義務を独断で撤回、一時的に退却後体制を立て直し、反転攻勢に出た。
反転攻勢時の戦術は拡声器によるバルセロナ市街全体への一度の警告警告の後、市街全体に12時間に及ぶ砲撃を加え、投降の意志を確認した者や逃亡した者も含め全て射殺するという非常に残酷な方法をとり、これは後に『悪魔の証明』と呼ばれ、のちの戦術家や軍事評論家からは国際法の穴や合法な虐殺方法として例に挙げられる定番となった。
しかし、バルセロナでの虐殺が本国に明るみになると指揮を取った将校は直ぐ様更迭もしくは銃殺され作戦は中止、撤退命令が出された。
結果的に反乱側の勝利となっていたが被害は非常に大きく、組織の程をなさなくなる寸前まで追い込まれており、その後の戦闘に大きな支障がきたすこととなる。その為、専門家からは3日発覚が遅れていたら政府側の勝利に終わっていたと評価されている。

マドリード包囲戦

ヘタファ、アルコベンダス、ポスエロデアラルコン、とれたトレドにて放棄したスペイン共産党、イベリア平等連盟第二軍団はそのままマドリードへ進軍した。しかし、マドリードに配置されていた第三十二歩兵大隊による激しい抵抗により行軍を止めざるを得ず、反乱勢力はマドリード郊外に陣地を築き、マドリード包囲が開始された。
マドリードに立て篭もる事になった第三十三歩兵大隊は市内から使えると判断した物を片っ端から徴収し、市民を働かせる事でバリケードを築き防御を固めた。市街に残っている住民のうち子供も含めた男性は皆武器として利用できそうなものを持たされ民兵として駆り出され、女性は炊事等の雑事に従事させられた。拒否権は存在せず大隊の兵士からの扱いも非常に酷く、住民は不満を募らせていった。

断続的な小競り合いはありつつも目立った戦闘はなく、マドリード包囲から一ヶ月が経過した。包囲によって補給路を完全に断たれていたマドリード側は非常に困窮しており、馬が倒れるとそこに人が群がるほどであった。既に子供の餓死者が出始めており飢え死にするのは時間の問題であった。その為将校達は当時比較的包囲が手薄であった北西方面へ兵力を集中させ正面突破を図る計画であった。

3日後、住民から無差別に選出した決死隊を囮としてピントへ突撃させて反乱側の目をそちら側へ向け、軍を動かしたと確認が取れたと同時にガラパガル方面へと進軍を開始、敵の隙を突く形で取られたこの作戦は見事大成功し第三十三代隊はグアダマラ山脈の麓にまで到達した。
グァタマラ付近の道路に即席の防御陣地を形成し一旦、マドリードで補給を行ってから再度進軍するべくマドリードへ向かおうとした瞬間、側面より身を潜めていた反乱側が一斉に奇襲を行った。突然の混乱しながらも決死の抵抗を見せるも瞬く間に戦線は瓦解、その殆どが射殺され拘束された者は僅か4名であった。
また、マドリードでも今回の作戦の為に都市の防衛は全て民兵に任され、そうした者達を指揮する為に残された者は僅か数名程度しかいなかった事により、力関係は数で勝る市民側へと完全に逆転していた。

作戦決行から14時間後の昼、ピント方面から一発の信号弾が上がったと同時に反乱側が一斉にマドリード攻略の為攻勢を開始、しかしながら防御を担っていた民兵は誰一人として武器を構えなかった。反乱軍の進撃が続く中、何度指示しても銃を一向に構える気配のない民兵に痺れを切らした大隊側は見せしめに幾人か殺そうとした瞬間、民兵達は一斉に牙を剥き、指揮を取っていた者達を捕縛。マドリードは一ヶ月の攻防の末、住民のサボタージュにより無血開城された。

余談として、マドリード市民の一部は食糧と引き換えにマドリード市内の防御陣地の位置や大まかな作戦などを反乱側に流しており、大隊がグアダマラ山脈側の包囲網を突破しようとしていたことも筒抜けであった。こうした反乱側と住民側の情報ネットワークはマドリードを攻略する際に信号弾の合図と共に民兵達にサボタージュしてもらうよう指示する際にも一役買ったとされている。

バスク=ガンタブリア同時蜂起

マドリードの包囲、カタルーニャでの攻防により現地の守備兵力への物資は全く足りておらず、反乱側であったバスク聖光会へ常に優位な状況で占拠が進んでいった。
聖光会はこの事に対して何らかの必然性を感じ、パクス、ガンタブリアのオーストリア支配からの解放は神からの啓示であると考え、この解放に異を唱える者、抵抗する者は皆神の敵であると喧伝した。この言葉は聖光会側あまりにも快進撃であった事と彼らが元々信心深かった事によりはある者は逃亡し、ある者は自分の所属する小隊ごと聖光会側に付き、またある者は突然同僚や上司、部下を殺し自ら命を絶ったという。
この様に補給路が非常に不安定であった事によって物資不足であったこと、守備勢力の内部からの瓦解によって僅か2週間程度で同二州は聖光会側へと陥落した。

ガリシア=レオン=ガンタブリア戦

アルコーニャ、ビーゴ、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、ヒホン、オビエド、バリャドリードにてガリシア独立連盟が同時多発的に決起、元々独立支持派の多いこの地域は守備兵力の三分の一が反乱側に加わった。彼らは守備隊に変装し、油断した所を集団で襲撃、弾薬庫、食糧物資の焼き討ち、持ち出し、作戦や軍の配置の盗み聞きを積極的に行った為、守備兵達は疑心暗鬼となり同士うちとなる場面が時間を経るごとに多くなり、守備兵力は3週間で瓦解した。
その後も守備兵の残党は各地で散発的な抵抗を見せるも2週間を経過した頃には完全に沈静化した。

コインブラ戦争

青年ポルトガル、ポルド沿岸警備隊がポルドにて蜂起、ガリシアに比較的近かった事もあり一旦北上を行いガリシア同盟と合流し補給路を確保、ポルドに戻りリスボンに向けて南下を始めた。
当初は東進しマドリードやバリャドリード攻略に参加する予定であったが反乱側が予想以上に快進撃を続けていた為予定を変更、ウィーン側に大した兵力はないと判断し単独でリスボンを落とす事を決断した。
反乱側がコインブラに差し掛かったとき東部より砲撃を加えられた。

この時、アンダルシア及びリーフの守備を任されていた第三歩兵師団、第二砲兵師団からニ大隊ずつ引き抜かれポルトガル方面へ異動されていた。当初は反乱側はすぐに南下してくると想定しリスボン前の平野に陣地を築いていたが反乱側は一旦北上した為防御陣地を移動、コインブラに指令部を構えレイリアに司令部を置き、山岳にて敵を迎え撃つ方向へと転換した。

これにより反乱側はコインブラ郊外にたどり着くも山岳部からの執拗な攻撃や都市特有の入り組んだ路地を使ったゲリラ戦術により瓦解、生き残った少数はそのままポルドへと撤退するのであった。

第二次バルセロナ攻防戦
命令違反を起こした現地将校の処分が決定後、中央は都市奪還の際、敵と市民の見分けが付かないという問題に直面しこれをどう対処すべきか非常に頭を悩ませていた。しかし、各都市の攻防の一部始終が耳に入った事により方針を転換、戦意の有無を確認しない限り攻略対象の都市に残留している市民は基本的に反乱側であると結論付け、既に銃殺された者を除き、処分の解除を決断。一切の容赦もなく制圧せよとの方向で固まった。
これにより一時撤退命令の出ていた二師団に対して体制を立て直し本国より移送された一師団と合流後、すぐさまバルセロナの攻略に迎えと伝達した。
合流後、ウィーン側はカステリョンブラナから沿岸部に沿って北上、たいした戦闘もなくバルセロナ近郊のカステルデフェルスまで到達し直線的で守りにくい同都市の外れにある山岳部に拠点を形成し、2週間後に行われるバルセロナ奪還作戦までの間、英気を養い互いの健闘を祈った。

一方反乱側は半ば壊滅状態にある状況を打破しようと四苦八苦していた。現地で募兵を行おうにも先の攻撃から逃れた人々は歳を離れピレネー山脈を超えた先にあるフランスへ避難する為に既に都市を離れていたのが要因である。また、他の反乱勢力から支援を貰おうにも唯一接続していたのはバスク聖光会であり、厳格なカトリック信者が多い平等連盟とは反りが合わず実質孤立無縁な状態であった。そのことから反乱側に出来ることは瓦礫の中から使えそうなものを探し出し簡単なブービートラップの作成やバリケードの敷設にとどまり、人員が不足しているためにそれ自体も非常に簡素に作られていた。この為、荒廃しているとはいえ碁盤の様に直線的な造りをしているバルセロナは非常に攻略しやすい状況であり、反乱側はいつ来るかわからないウィーン側の兵士に怯えながら夜を過ごす事となる。

作戦決行の日の2日前の明け方近く、まずウィーン側は事前の予測から反乱側が防衛線を張っていると考えられる河川沿いの偵察を行う事を決定した。偵察に参加する兵士には前日に酒と将校級の豪勢な食事が与えられた。
しかし、普段開けてみれば河川は防衛線どころか反乱側の兵士もほとんど見受けられず、遭遇したとしても皆武器を持たず手を上げて我先にと競う様に投降した。あまりの呆気なさに終始ポカーンと口を開けていた者や油断を誘う罠ではないかと勘繰る者が多数であったがいくら捜索しても敵はおらず捕虜を連れてそのままカステルデフェルスまで戻った。
この報告と今回捕まえた捕虜の尋問からを受けた将校達は敵側に抵抗する程の力はほとんど残っついないと判断し決行日を一日繰り上げて事前に行う手筈であった砲撃を中止し自軍の数を見せつける様に進軍し自ら投降するように促す作戦へと切り替えた。

バルセロナでの攻防は散発的に行われはしたものの殆どの者は戦意を喪失し投降、第二次バルセロナ攻防戦は呆気なくウィーン側の大勝に終わった。
また、この時に出た戦死者の殆どはブービートラップによる者でありブービートラップの脅威を認識したウィーン側は以後、抵抗的にブービートラップ対策や教育を行う様になった。

マドリード解放作戦
マドリードは反乱側の手に落ちた後、防衛時に張られた即席の防衛線は強固な物へと作り替えられていた。また、ガリシアとも戦線がつながったことにより合流、人物が豊富にある難攻不落の都市へと変貌しつつあった。ウィーン側は陥落後に一度砲兵による6時間に及ぶ砲撃を加えるも防衛線は健在であり、旅順要塞に匹敵するかそれ以上の堅牢さがあり、奪還は困難を極めると報告した。
これを受けて中央はバルセロナの攻略が終わった三師団に対して二個大隊をおきシルダーレアルへ向かえと指示、また、第三歩兵師団、第二砲兵師団にも同様の指示を送り、本国からはドイツから引き抜いた技術者て建造したグラーフツェッペリンのコピー10機と戦車大隊、歩兵師団二師団を送り二ヶ月後に奪還作戦を決行するとし事前の打ち合わせや入念な偵察が行われた。

そして作戦決行時となった二ヶ月後の明け方近くに砲兵師団及び飛行船による砲撃、爆撃がマドリードへと開始された。六日間日夜問わず砲撃が加えられ都市は土煙により砲撃が終了するまで完全に視認が不可能となったという。砲撃が終了した後のマドリードは酷い鉛汚染と岩の如く固められた土壌により復興が不可能となっていた。これがイベリアの地方行政の中心をマドリードからアリカンテへと移す要因の一つとなった。
後世の評価ではこの砲撃は過剰との評価がある一方で評論家からは見せしめや尾張のない砲撃音による精神的揺さぶりといった心理学的面から見れば効果的であったいう意見もみられている。

砲撃が終了後、文字通り瓦礫の山、更地と化したマドリードを戦車大隊を中心に進撃を開始、反乱側は都市の地下を網目状に掘っていた為人的資源の損耗は少なかったものの6日に及ぶに砲撃により憔悴しきっており砲撃音が終わると共に奇声を発しながら一斉に銃身突撃を始めた。
想定以上の数の多さと血気染まるその様子ににウィーン側は怯み、戦線は崩れ一時的に崩れかかるも機銃掃射や戦車の活躍により直ぐに京成は逆転。作戦開始から8日後にはマドリードを制圧、17日目には残党狩りも粗方終了した。
反乱側は全滅に近く捕虜の殆どは怪我や病気、砲弾病などの理由で戦えなくなった者ばかりで、健常者は殆どいなかった。ウィーン側はあまりにも多すぎる患者にに頭を悩ませた後、全員の面倒を見るのは不可能と結論付け幹部や頭目、貴族といったカーストが高い患者や健常者以外を全員地下に戻し、確認できる出口を全て塞ぎ生き埋めにした。また、戦時報告書には生き埋めにされた捕虜は砲弾病や怪我について触れながらも『地下に立て篭もり我が軍を迎え撃った』と記載され、意図的に生き埋めにされたことは隠された。また、あ反乱側でも病気や怪我になったとしても戦い続けた勇者達として祭り上げられており、2017年の発掘調査や当時戦闘に関わっていた者の手記や証言からこの戦争犯罪の事実が明らかになって以降も両陣営はこの事実を認めていない。

リスボン争奪戦

マドリードへの攻勢計画の為、軍の大半が移動しポルトガル南部の守りが手薄になった事を察知した青年ポルトガルとガリシア独立連盟は再びリスボンへの攻勢を行う為の準備を行い、マドリードが砲撃を受けたという電信を受け取ったと同時にリスボンに向けて南下を開始した。前回の失敗から防衛陣地が貼られている沿岸部とその付近から大きく迂回しヴィラレアル、カステロブランゴを経由しリスボンへと突入した。
騎兵や馬車による機動的な戦術は突然の強襲に混乱していたウィーン側に非常に効果的であり、戦闘開始から数時間足らずでリスボンを占領した。

リスボン占領の一報を受け、防衛線の守備を行なっていた四大隊はすぐさま南下を開始した。それを好機と見た反乱側は即座にコインブラなどの都市に奇襲をかけこれを制圧しリスボン方面へ向かった四大隊を追い始めた。
四大隊はボルンバラに到達しリスボン攻略に向けての準備を整え、電信により連絡をとっていたアンダルシア側と擦り合わせを行い3日後にリスボンへ攻撃を行う事を決定した。

3日目の昼にリスボンへの攻撃が開始された。馬を中心とした反乱側は1時間に及ぶ砲撃により馬が使い物にならなくなり抵抗はあるもののウィーン側が有利でことが進んでいっていた。しかし、攻撃開始から6時間が経過した時に四大隊を追って来た反乱側が背後から強襲し戦線は瓦解、一気に反乱側有利となった。
ウィーン側も抵抗を続けるも次々と応援が来る反乱側と違いマドリード解放作戦中で守備兵力が少なかったウィーン側はジリジリと撤退しそのままアンダルシアまで敗走、反乱側も追いかけるがアンダルシア側の守りは非常に固く、現在のポルトガル=ウィーンの国境線上にて完全に膠着した。

その後の戦線
リスボン争奪戦を境に両軍は互いに攻め込むほどの兵力を有していないことから戦線は完全に停止した。以後散発的な戦闘が各所で行われるも、特に目立った戦いは起こらず1年が経過したことにより両陣営はイギリスを仲介として停戦交渉を行う様になる。

結末

一連の戦争は1928年のブライトン条約?により集結した。これにより反乱側の占領しているナバラ、バスク、ガンタブリア、カタルーニャレオン、ガリシア、ポルトガルは独立し事実上のウィーン同盟の敗北で決着した。

余談

その後、独立を勝ち取った同地域は統一戦争を行った。早々と離脱したポルトガル共和国以外は現在では停戦期間中であるが散発的な戦闘を行っており、未だ緊張した状態が続いている。

各国の支援及び余談

ウィーン同盟側

イギリス

フランス

反乱側

ドイツ

イタリア

ソ連

アメリカ

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます