だれでも参加できる創作国家グループです。初心者さんも経験者さんも大歓迎です、どんどん雑想しましょう。

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{ドイツ=オーストリア戦争}
基本情報
開戦1938年7月1日
終戦1945年6月5日
反乱地域イタリア、ドイツの国境線部、カルタゴ
講和条約ポーツマス条約
参加国
ウィーン同盟ドイツ国?
イギリスイタリア王国
フランス南ハンガリー共和国
アメリカ合衆国
カルパト・ウクライナ共和国
支援国
ポーランドルーマニア鉄衛団
フランス

沿革

ドイツによるドイツ人の完全なる統一は第一次世界大戦後のイギリスやフランスとの会議において承認された事項であった。しかし、詳しい範囲が明確に決められておらずドレクスラー政権時にこの範囲の不明確さを利用された形となった。

1833年ドレクスラー政権が発足。34年よりドレクスラーはドイツ民族の完全な統一を掲げウィーン側間と第二次フランク議会を結成しドイツの完全統一について議論を重ねることとなる。


議題は主に下記八つであった。

・ハプスブルク家の社会的地位

・ハプスブルク家の政治的立ち位置

・スペイン、カルタゴの扱い

・ウィーン側の貴族の扱い

・ホーエンツレルン家の社会的地位

・ホーエンツレルン家の政治的立ち位置

・ユンカーの社会的地位

・ユンカーの扱い



これによるドイツ側、ウィーン側の見解は
議題 ドイツ側の見解 ウィーン側の見解
ハプスブルク家の社会的地位 ハプスブルク家はその爵位を返上、一部財産の凍結 現状の地位を維持。また、合併後にはドイツ民族の象徴および国家元首とする
ハプスブルク家の政治的立ち位置 一切の公職に着くことも認めない 一部公職を除き就任可能とする
スペイン、カルタゴ、ハンガリーの扱い スペイン、は独立、ハンガリーは南ハンガリーにカルタゴはフランスもしくはイタリアに譲渡 ドイツ属州として合併後も領有する
ウィーン側の貴族の扱い 選帝侯を含め全ての貴族は爵位を剥奪し財産、土地を没収 現状維持。宮廷下級議会、7選帝侯会議はその権威に見合うだけの議会に編入する
ホーエンツレルン家の社会的地位 国内にて盛んに議論が行われており今は結論を出せる段階ではない いくつかの爵位は没収するも貴族の立場として復権する
ホーエンツレルン家の政治的立ち位置 上に同じく国内にて盛んに議論が行われており今は結論を出せる段階ではない 一切の公職につくことも許さない
ユンカーの扱い 土地を没収のみ 土地と爵位の没収、公職からの追放
議題ドイツ側の見解ウィーン側の見解
ハプスブルク家の社会的地位ハプスブルク家はその爵位を返上、一部財産の凍結現状の地位を維持。また、合併後にはドイツ民族の象徴および国家元首とする
ハプスブルク家の政治的立ち位置一切の公職に着くことも認めない一部公職を除き就任可能とする
スペイン、カルタゴ、ハンガリーの扱いスペインは独立、ハンガリーは南ハンガリーにカルタゴはフランスもしくはイタリアに譲渡ドイツ属州として合併後も領有する
ウィーン側の貴族の扱い選帝侯を含め全ての貴族は爵位を剥奪し財産、土地を没収現状維持。宮廷下級議会、7選帝侯会議はその権威に見合うだけの議会に編入する
ホーエンツレルン家の社会的地位国内にて盛んに議論が行われており今は結論を出せる段階ではないいくつかの爵位は没収するも貴族の立場として復権する
ホーエンツレルン家の政治的立ち位置上に同じく国内にて盛んに議論が行われており今は結論を出せる段階ではない一切の公職につくことも許さない
ユンカーの扱い土地のみを没収土地と爵位の没収、公職からの追放

となり会議は平行線を辿った。以降も何度も両国は擦り合わせを行うが結局話はまとまらず、1935年を最後にフランク議会は閉廷した。
同年にドイツは再軍備化の達成を宣言。軍の4割はオーストリア国境部に配備された。以降、南ハンガリー、イタリアに加えドイツからの軍事的挑発が行われるようになる。

1937年に英仏を仲介とした独伊維による領土交渉であるミュンヘン会議が開かれた。この会議でも領土、民族問題に終止符に打つべく5カ国は真剣に協議するも折り合いはつかず解散となる。また、南ハンガリーは別室に待機となっていた。
以後、ドイツ、イタリア、南ハンガリーは対話による解決から完全に切り替え、力による強制的な解決を行うべきという強硬手段をとっていく方向へ舵を切ることとなる。


1938年7月1日にドイツはズデーテン及びチロル地域、ハンガリー地域以外のオーストリアの割譲に関する最後通牒を行い。同日ウィーン同盟側はこれを拒否したことにより7月8日にドイツ国防軍がズデーテンラント、ザウスブルク、チロルへ侵入、ウィーン同盟側と衝突した。ことにより7月9日ドイツ、ウィーン同盟両政府は正式に宣戦布告をスイス大使館を通じて相手国に布告した。
それから二ヶ月後にドイツとの同盟を理由にハンガリーが宣戦を布告。40年には静観を続けていたイタリアも参戦を表明した。

経過

ズデーテンラント要塞戦

ドイツは最初、ズデーテンの強力な要塞線を迂回しポーランドから軍事通行権を貰い侵攻するルートを計画していたがポーランドに拒否され計画は頓挫した。ドレスクラーはポーランドも一緒に薙ぎ払えと叱咤したがイギリス、フランスからポーランドへの独立保障をしていることポーランドに攻めればどうなるのかという密書が送られて断念。既存にある全力を使い真正面から要塞を突破するしか無くなった。

ズデーテンラント要塞は厚さ3.0mの厚いコンクリートで覆われ高射砲台、トーチカ、砲台等が備わっておりそれらは地下深くまで続く網目状の地下道でつながっていた。それ以外にも1.3mのコンクリート障壁、鉄骨、地雷、鉄条網、が多数設置されていてその堅牢さはマジノ線に並ぶとまで言われた。
この要塞線を攻略する為国防軍は理論上要塞を守る破壊可能な距離まで近づこうとするも地雷原や鉄条網にかかり茂みに隠れたトーチカから狙撃されるという散々な有様であった。また、航空機による爆撃を行おうにも高射砲による綿密な防空網に防がれ
ウィーン側はというとドイツの戦線布告後、南ハンガリーとイタリアの怪しい動きがあるとの報告から警戒の為、ドイツに全戦力を集中出来ずにいた。また、ハンガリー、チロルへの要塞にもいつでも戦闘状態に入れるよう十分な人員を割く必要がありウィーン側がドイツに対して出来たことはただひたすらドイツの人的資源が削り切られることとドイツ世論の厭戦気分からくる終戦を待つのみであった。

ドイツは堅牢なズデーテンの要塞線を突破出来ずにいた。地雷や鉄条網と言った物が道を塞ぎ肝心の要塞が攻略できる有効射程まで進軍することができなかったのだ。
これにより一時期チロル地域からの突破をかける打開策が浮上したが防御側が圧倒的に有利な山岳であること、に加え補給路が不安定になり補給ご遮断され前線の部隊が飢え死にするリスクを常に追っててしまうこと、チロル地域を狙うイタリアを刺激しかねないことの三つの理由から即座に棄却された。

双方決定打が無くどちらも損耗を抑えたい為攻勢に転ずることができず一ヶ月間も無戦闘状態という異常事態が続いた。最初の頃はお互いにいつ奇襲攻撃が来るか分からないとして緊張状態であったが1週間経つ頃には兵士達の気も完全に緩み、支給された酒を眺めの良い場所で昼間から仲間うちと飲み明かし、バレーボールやサッカーの遊びに興じていた。また、敵側に行ってはならないという暗黙の了解にがあった為一定の秩序は存在していたが2週間もする頃には邂逅した敵兵とも談笑し朝まで飲み明かすまでになってしまった。
当時従軍記者としてズデーテンへと赴いたジェラール・ド・ベッケルはこう書き残している。
「高度化された鉾と盾は双方の攻撃意志を悉く子削ぎ落とし現在では完全に牙を折られたも同然である。彼らは自らの敵と球技や酒を楽しみ、争いはせいぜい酒に酔った者同士による喧嘩かスポーツぐらいであろう。民から搾り取った血税は彼らの国の中に瞬く間に消えていく、政府は大義がどうとか崇高な使命がどうとか言っているらしいがこの『まやかし戦争』にそこまでの使命や大義があるのであろうか?私はそうラインハルトに問いかけた。」(ジェラール・ド・ベッケル.著『ズデーテンラントの春?』より引用)
両政府も軍令部もこの状態をよしとせずどうにかこの状況から打開する策を検討していたものの、双方とも早急な解決策が思い浮かばずこの状況は続いていた。しかし、この状況が必ずしも悪かったわけではない。第一次世界大戦と世界恐慌で発生した大量の失業者が志願し失業率が改善され、軍需物資の需要の拡大により恐慌により低迷していた経済状況の好転が見込まれるなど様々なプラス要素に加えもはや双方が意地になり始めていたこともあり白紙講和の協議はされることもなかった。

この一ヶ月後、ハンガリー統一を掲げていた南ハンガリー共和国はウィーン同盟に宣戦布告、枢軸国として参戦した。同日、南ハンガリーはドイツやイタリアから大量の軍事支援を受けて国境線を越えハンガリーへと突撃を行うもズデーテン要塞同様の堅牢さを誇っていたハンガリー国境線上の要塞線に歯が立つはずもなく結果は惨敗であった。いくら惨敗しようとも愚直に突撃による一点突破を狙った攻勢は南ハンガリー軍の人的資源を削り続け、南ハンガリー軍の損耗率が42%にのぼる頃にこの事態に気が付いた南ハンガリーの軍令部は攻撃を中断し、ドイツと同様膠着状態に陥った。
この無謀な突撃は参戦時にドイツから取り寄せたズデーテンラント要塞線の資料と考察を元に一番効果的であると結論付けて立案されたものであった。
当時、ドイツ、南ハンガリー両国の認識としてはズデーテンラント要塞線の異常すぎるほどの堅牢さからズデーテンラントの要塞線に多くのリソースを割いており、イタリア、南ハンガリー側にある要塞線は堅牢ではあるが建設費用や予想される莫大な維持費や資材といった面から考えてズデーテンラントほどの堅牢さは現実的ではなく既存の兵器からも攻略は可能であるであった。
実際、ウィーン政府も要塞線の建設費用や資材の収集に苦心しており、南ハンガリーは脅威度がイタリア、ドイツに比べれば低くくイタリアも国境線は山脈によって隔たれている為直接の脅威はドイツに比べれば薄く、ドイツの平野部に位置する地域を堅牢にしそれ以外のイタリア、南ハンガリーの要塞線は薄くても良いのではとの意見が浮上していたものの当時の皇室や有力貴族が私財を投げ打って要塞線建設に協力してくれたこともあり、英仏の独立保障がかけられていたポーランドと接する国境以外のドイツ、イタリア、南ハンガリー国境線部に同水準の要塞線を建設することとなった為、南ハンガリーの大誤算に繋がった。

攻勢を止めざる追えなくなったハンガリーは国境部に臨時の要塞を築き戦線は完全に停滞することとなる。ウィーン側はこの機に乗じて南ハンガリーに対して反転攻勢を仕掛けようとするもイタリア軍が急に活発化したことと完全に腑抜けているとはいえ未だに油断ならないドイツ軍、そして見え隠れする他国の介入に警戒して結局ウィーン側は反転攻勢に出ることを諦めた。
この時、実際にイギリスはドイツとウィーンの完全な共倒れを狙っており、ハンガリー軍に1万人の義勇兵と大量の武器支援を積極的に行っていた。また、イタリアやドイツもハンガリーへの反転攻勢によって人員の引き抜きが起こり要塞の警護が薄くならざるを得なくなり、その機に乗じて一斉に攻撃を仕掛けるとして両国で攻勢計画の擦り合わせがされていた。

1939年9月1日ドイツはウィーン側の戦線の好転化を狙い、ダンツィヒ、マウポウスキの割譲を要求しポーランドへと侵攻を開始、ドイツ軍の破竹の勢いに押され同月中旬にはポーランドの占領が完了した。
たった半月の猶予でポーランド側への十分な防御を固めることができずウィーン側はハンガリーからの侵入を許してしまう。
ただ唯一の救いはドイツが侵入してきた地域は山岳地帯であった為戦線の再構築が容易であったことであろう。ウィーン側はハンガリーの3分の2を放棄し山岳と要塞線に沿って戦線を再構築し再びドイツは泥沼へと足を突っ込んだ結果となった。
しかし、この早急な立て直しによりイタリア国境部から大量の引き抜きが発生し要塞の維持に必要な人数しか残していなかった。このことからドイツのポーランド侵攻から一ヶ月後の10月にイタリア政府はウィーン側にたいして参戦をちらつか始めた。戦線の立て直しには成功したものの部隊の再配置は未だ行われておらずイタリア国境部は容易に侵攻可能であった。このことからウィーン側はイタリア政府に飛び地であったミラノ、緩衝地帯として空白であった南チロルのニ州の割譲を条件に今戦争の中立を申立て、イタリア政府はこれを受理し一旦の落ち着きを見せた。これによりイタリア方面に派遣していた軍が余剰戦力となり以降、ウィーン側はこの余剰戦力を使い、ドイツ、ハンガリーへの攻勢計画を立案するのであった。
また、余談であるがこの時ウィーン同盟政府も連合国への参加を申請していたがイギリスがこれを拒否したことによりまだ加盟できてはいない。

ヴィシー事件

イギリス、フランスはポーランドへの独立保障を理由にドイツへ宣戦を布告、これにて第二次世界大戦が改善した。ドイツは当時中立宣言を出していたベネルクス三国にたいして宣戦を布告。ジークフリート線による陽動に引っかかったフランスはドイツ=フランス国境に軍の大半を貼り付けていた為、ベネルクス側の国境の守りが疎かになり、たった一か月でフランスは降伏した。
フランス占領後ドイツは、フランスの統治を親独派の現地勢力に任せてそのままピレネー山脈を超えスペインへの侵入を開始した。しかし、補給路の悪さとウィーン側の山岳歩兵部隊による昼夜問わずの奇襲によりピレネー山脈越えは困難を極めた。また、ドイツ軍がピレネー山脈に集中しているのを尻目にイギリスはフランス、ベネルクス、北ドイツに同時多発的に強襲上陸を行った。この時グデーリアン元帥がパリ周辺にいた為、彼が率いる機甲部隊と沿岸警備隊によって6ヶ月かけて撃退された。これによりドイツは第一目標をオーストリアからイギリスの無力化に置き換えたことによりドイツのピレネー山脈越えは中止となり以後ドイツは、フランス沿岸部の防衛とイギリスの屈服の仕方について頭を悩ませることとなる。

チロル侵攻


1940年2月6日イタリアは未回収のイタリアの奪還を理由に当時同盟国であったユトヴィアに対して最後通牒を通達、同日ユトヴィアは拒否、1940年2月8日イタリアはユトヴィアに対して戦線布告を行った。
ユトヴィア軍の兵装は第一次世界大戦後に接収したドイツ軍の兵器であり、武装の更新が行われていなかった彼らはみるみるうちに後退を続け、同月18日にはイタリアによる全土占領が完了した。
また、イタリアは16日にウィーン側にも同様の理由でチロル地域を要求。突然の最後通牒に混乱したウィーン側は期日であった20日を過ぎ、イタリアが宣戦を布告、それと同時にユトヴィア国境線上から侵攻を開始した。
あまりにも急なことであったことから選帝侯や宮廷だけでなくウィーン軍の指揮系統にも混乱が広がっており矛盾する指示や現場同士の食い違いがこの時多数見られた。特にハンガリー戦線にてよく見られこれによりハンガリー戦線は更に後退することとなる。
大きな混乱はありつつもアルプス山脈沿いで戦線の構築に成功しひとまずは安心できる状態となった。
兵力の集中具合からこの一手でウィーン側はすぐに降伏すると予想されていたのにも関わらず戦線の構築に成功したことから。イタリア軍はギリシャ、ユーゴスラビアへの侵攻計画を停止させ、オーストリア攻略戦にほぼ全兵力を投入する構えを見せる。

ドーラの夜

ハンガリー戦線やイタリア戦線の構築が行われてもなお、ズデーテンラント要塞線は1、2回のお遊びのような攻勢があったのみであのまやかし戦争はまだ続いていた。しかし、1940年9月28日をそう言った交流はピタッと無くなった。オーストリア側も承知しており、両軍の兵はお互いの別れを惜しみつつ、互いの健闘と無事を祈り自らの本来あるべき配置へと戻るのであった。
オーストリア上層部はドイツ側からこの状況が打ち切られたことからドイツ側にこの要塞線の突破が可能だと考えるほど強力な新兵器が開発されたと確信し、兵の三分の一を引き抜き万が一、億が一の確率で要塞線を突破されるのを警戒し首都ウィーンの防御を固める為の新たな戦線の構築に勤しんだ。

翌月の21日ドイツは新兵器である80cm列車砲グスタフ、ドーラ、カール自走臼砲を投入、ズデーテンラント攻略に本腰を入れ始めた。1938年のズデーテンラント攻略の際の苦い経験をふまえて作られた今兵器はもはや動く火山と形容するほどに強力でありズデーテン要塞が誇る非常に分厚いコンクリート壁を貫き、地下に逃げ込んでいたオーストリア兵をその威力と質量に任せて押し潰し薙ぎ払い生き埋めにし、2年間対ドイツ防衛勝利の象徴であったズデーテンラント要塞線は4ヶ月後の1941年2月28日に完全に沈黙し3年に及ぶ戦いはドイツ側の勝利に終わった。後に大尉としてズデーテンラント要塞戦に派遣されていたエルンスト・ユンガーはのちの自分の作品にてこのように記した。

「私達がつい先月までサッカーをしていた場所には寸胴で鈍重なカール自走臼砲が陣取り、先々月に仲良くなったオーストリア将校と一緒に煙草をふかして酒瓶片手に見て回ったズデーテンのあの美しく厳かな要塞はのように簡単に崩れ去った。あの時煙草を融通してくれた友人やうっかり機密情報を漏らして上司に小突かれていた友人、嫁の惚気話ばかりをしていた友人は皆無事であろうか。いや、あの黒光りする戦場で醜く太った貪欲な女神共の一斉放火の前には無意味な心配であろう。
主よどうかこの戦場で知り合い、この戦場で袂を分かった友人達の命に祝福を
主よどうか隣人に友に銃口を向ける我らの行いをどうかどうかお許しください

Amen.

    」(エルンスト・ユンカガー著.『ボヘミアの友人』より引用)

オーストリア陥落

ドイツがズデーテン要塞を突破してから2日後の41年の3月2日にイタリア軍、南ハンガリー軍は一斉攻勢を開始、翌週の9日にはドイツ軍も攻勢を開始した。度重なる改築により防御は万全であったもののズデーテン要塞が陥落した心理的揺さぶりは凄まじく士気は目に見える形で下がっており、自ら敵に投降されに行く兵士や部隊が跡を立たなかった。この投降に歯止めをかけようにも皇帝をはじめ選帝侯などの上層部の一部はスイスへの亡命を開始しており、示しがつかない状況であった。この為、オーストリアは新たな対ドイツ戦の象徴を見つけようと苦心することとなる。
また、ドイツ軍は戦車の機動性を活かした電撃戦を使い次々とオーストリア川が構築した防衛線を突破していった。イタリア側も技術供与されて生産されたカール自走臼砲を用いて敵陣を吹き飛ばすことによって戦線を突破しウィーン攻略へと踏み切った。

ウィーン攻略はほぼ無血と言っても良かった。精神的支柱であったズデーテン要塞の陥落、ドイツ軍が構築した戦線を瞬く間に突破したこと、ドーラやカールなどの新兵器の威力などオーストリア兵の継戦能力をへし折るのには過剰とも言えるほどであり、大半のオーストリア兵は目の前で家が焼かれようが人が焼かれようがそれをぼーっと見つめるだけで何もせず、ドイツやイタリアが捕虜にしようとしても抵抗せず項垂れながら大人しく捕虜となった。

ズデーテン要塞を突破されてから2日後の3月5日にオーストリアの占領が完了し、ボヘミアとチロル以外のオーストリアをドイツがチロルをイタリア、ハンガリーを南ハンガリーと三分割されそれぞれ統治される事となる。

臨時政府の結成

オーストリア間落後、スイスを経由し空路でイベリアへと逃れたウィーン同盟上層部はグラナダを臨時首都とするイベリア臨時政府を作成、オーストリア奪還を掲げ連合国への加盟交渉を行った。
アメリカ、フランス、ポーランドが賛成するも連合国の盟主であるイギリスはウィーン同盟の連合国加盟を拒否、これにより加盟交渉は頓挫した。
イギリスがここまで頑なにウィーン同盟の加盟を拒む理由として欧州からのドイツ排除は第一としてもう一つにウィーン同盟加盟国を離反させる目論みがあったこと、アメリカが連合国側として参戦した為わざわざ解体を目的とするウィーン同盟を入れる理由が消えたことにより頑な態度を取っていたと2002年の機密資料公開時に明らかとなった。
連合国加盟の希望が絶たれたウィーン同盟はイタリアのイベリア上陸に警戒しつつ、イギリス、アメリカに連合国加盟の再交渉を求める為の外交官を派遣してただひたすら耐えるのであった。

連合国加盟

1941年9月28日ドイツはアシカ作戦を決行、作戦は失敗に終わったもののロンドン周辺を三カ月間占領される結果となる。このことを受けてフランスとポーランドは欧州からのドイツ排除より私怨を優先結果だとしてイギリスを激しく非難、また、イギリス国内でも対ドイツの橋頭堡となるイベリアを領有したウィーン同盟を連合国に頑なに加盟させないのはどうなのであろうかという世論に押されて1942年4月12日ポツダムにてウィーン同盟の連合国加盟が承認された。
この背景にはウィーンとユトヴィアがアメリをはじめとした欧米諸国にイベリアが対ドイツにおいて橋頭堡や拠点として非常に有用な事とイギリス以外の国家によるアメリカ主導の連合国の再編成を行うべきという内容の教義を何度も行い、今回のアシカ作戦を受けて、ウィーン側の話に乗っかりイギリスを見放すような動きを見せたことも一つの要因と見られる。

欧州奪還会議

イタリアへの侵攻はイギリスが大反対しており欧州各国にも実害は出ていなかった為、エチオピア皇帝がロンドンで匿われている事以外イタリアとの軋轢はなく宣戦布告も行われていなかった。
しかし、欧州奪還の鍵を握るのはイタリア半島でありここを攻略すべきだと1943年4月20日にウィーン、ユトヴィアが提唱し、ファシズムの流行を抑えたいアメリカもこれに賛同した。イギリスは猛反対し代替案としてベネルクスや北フランスへの上陸作戦を提唱したもののウィーン同盟の加盟以降、連合国の主導権を握るのはイギリスでは無くなり始めた為、ポーランドフランスはアメリカ側につき、イギリスに賛同したのはベネルクス三国であった。これによりイギリス主導のダンケルク上陸作戦とアメリカ主導のナポリ上陸作戦の二つのうちどちらを行うのか争う事となる。三ヶ月にわたる協議のでも決まらずこのまま話は平行線で終了するかに思えたその瞬間、ソ連によるドイツへの反抗作戦が開始されたとの報告を聞き、アメリカ側とイギリス側は急速に接近、アメリカが両方に十分な人員を補充する形で決着が付き、ドイツへの反抗作戦が実質されることが決定した。

地中海海戦

1944年3月30日連合国はイタリアに宣戦を布告、ナポリ上陸作戦を決行した。
ウィーン同盟海軍及びアメリカ海軍は連合艦隊を結成、ティレニア海にてイタリア艦隊と会敵し第一次ティレニア海海戦が勃発、両軍入り乱れて交戦し連合艦隊は活躍するもドイツ空軍の増援により押され始め、4月3日にバレアス諸島へと撤退、駆逐艦8隻、巡洋艦2隻が撃沈し駆逐艦2隻、巡洋艦3隻が大破戦艦1隻が軍港帰還直後に大破着底、駆逐艦12隻、巡洋艦1隻、戦艦2隻、空母3隻が中破、戦艦1隻が小破と言う形で大損害をおったもののイタリア海軍も海防艦12隻、駆逐艦18隻、巡洋艦1隻、戦艦1隻が撃沈、駆逐艦13隻、巡洋艦16隻、戦艦2隻、空母2隻が大破、駆逐艦6隻が中破、戦艦2隻が小破という大損害を被った。
その後、修理の終えた船をかき集めて再度連合艦隊を結成8月9日に第二次ティレニア海海戦が勃発。ソ連軍の浸透が想定以上に広がっていたドイツ側はイタリア海軍を支援することができずイタリア側は孤立無援で戦う事となる。これによる連合艦隊の被害は戦艦二隻、空母1隻を失うもイタリア王立海軍は無力化され目標を達成しジブラルタルへと帰郷した。
また上空ではウィーン、アメリカ空軍とイタリア空軍によるサルデーニャ空戦が行われ数に勝るウィーン、アメリカが圧勝しイタリア空軍は保有機の約30% を喪失した。

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