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神聖アクスム獣皇国は多数の領土から構成される多民族国家である。アクスム建国以前には紀元前からの歴史を持つエチオピア帝国、ソマリアの地に栄えたプント王国、ザンジバル=スルタン国、イエメン=スルタン国、ルワンダ王国、ウガンダ王国、エチオピア帝国に亡命し現アクスムの皇室 ロマノフ=ソロモン朝の始祖である16世紀〜19世紀ロシアを支配したロシア・ツァーリ国、ロマノフ朝ロシア帝国、そして神聖アクスム獣皇国建国の歴史をこのページでは詳しく紹介する。

建国神話

古代エチオピア王国

イクノ・アムラク以降のソロモン朝エチオピア帝国

近代ソロモン朝エチオピア帝国

領土拡大期

帝政末期

憲法制定
アディスアベバ騒乱
メネリク3世の即位
1913年12月12日69歳でメネリク2世が崩御した。
即位したのはメネリク2世の10男で才覚溢れるハイレ・ヨシェア・メネリク=ソロモン皇子だった。ハイレ・ヨシェアはメネリク3世として1914年1月3日にエチオピア皇帝に即位した。父帝時代から西欧諸国や近隣諸国を歴訪していたため国際的感覚を身につけ平民に身をやつし市井に繰り出し平民の現状と併合した東アフリカ・イエメン領土の本格的な発展と経営に乗り出した。ドイツ・イギリスから鉄道敷設技術、海底ケーブル設置、鉱山採掘、石油採掘・精製技術を学んだ。父帝がやり残した帝国議会の整備と普通選挙権の成人男性に与えることも成し遂げた。これらの施策は即位してから3年の1917年までに実行しておりエチオピア帝国中興の祖 テオドロス2世の再来ともてはやされた。
ロシア帝室の亡命
1917年2月、ロシアで起きた二月革命(第1次ロシア革命)によってロシア皇帝ニコライ2世を初めとするロシア帝国の皇族・帝政派ロシア貴族及び軍人・反革命派の平民、動乱によって亡命したドイツ人・ユダヤ人がオスマン帝国やイラン帝国を経由し近代化を測るため帝政ロシアと親交のあったエチオピア帝国に助けを求めた。時のエチオピア皇帝 メネリク3世とニコライ2世は親友でありエチオピア帝室とロシア帝室との繋がりも深いためメネリク3世はニコライ2世を含むロシア帝室一行を厚く遇した
。ニコライ2世含むとロシア人達はエチオピア帝国の近代化に力を注いだ。
ロマノフ=ソロモン朝の誕生
1918年、エチオピア帝室とロシア帝室の関係を強固なるものにするためメネリク3世はニコライ2世の娘 アナスタシア皇女殿下と結婚した。この結婚は従来のエチオピア帝国臣民、亡命ロシア人からも受け入れら2人の関係は良好だった。しかし、メネリク3世はアナスタシア皇后陛下があまりにも美しく純粋であったため夫婦の営みをしていなかったと宮内省には伝わっている。アナスタシア陛下は結婚から4年後の1922年7月17日に崩御された。アナスタシアの死は全臣民を深く哀しませた。
エチオピア帝国の終焉
特にメネリク3世は大きな哀しみにくれた。メネリク3世はアナスタシアの姉マリア大公女殿下と結婚されミハイル・メネリク皇太子をもうけた。しかし、メネリク3世は政務を弟のヨハンネス大公とヘラクレイオス首相に任せアディスアベバの宮殿に引きこもってしまった。1924年12月10日にメネリク3世は崩御した。
ここにイクノ・アムラクまで続くソロモン朝エチオピア帝国は歴史から姿を消した。だが歴史家や神聖アクスム獣皇国はソロモン朝は滅んでおらずエチオピア帝国も国号を改称しアクスムの1部として存続しているとの見解を示している。
現在、アクスム国内で広く用いられている説に神聖アクスム獣皇国全史?の著者で神聖アクスム獣皇国文部省国家歴史庁初代総監でメネリク2世の末弟リジ・レイオニクス・ソロモン大公は次のような発言を残している。

「近代化と領土拡大、ロマノフ家の亡命でエチオピア帝国は大きく変わった。既にソロモン朝歴代皇帝がエチオピアの大地だけを支配していた時代は終わった。エチオピアの皇帝はエチオピアだけのネグサ・ナガスト(諸王の中の王)だったが今(1950年のエチオピア帝国)のエチオピア皇帝は東アフリカ・イエメンのネグサ・ナガストになったのだ。国号がかわり君主号が変わってもイクノ、アムラク大帝から続く正統たるソロモン朝君主の歴史が終わった訳では無い」
1950年 神聖アクスム獣皇国全史にて。

ዘመናዊነት፣ የግዛት መስፋፋት እና የሮማኖቭስ ግዞት የኢትዮጵያን ኢምፓየር ቀይሮታል። የሰለሞናዊው አፄዎች የኢትዮጵያን ምድር ብቻ የሚገዙበት ዘመን አብቅቷል። የኢትዮጵያ ንጉሠ ነገሥት ንጉሠ ነገሥት ነጋሥት (ንጉሠ ነገሥት) የኢትዮጵያ ብቻ ነበር፣ አሁን ግን የኢትዮጵያ ንጉሠ ነገሥት (የኢትዮጵያ ንጉሠ ነገሥት በ1928) የየመን የምስራቅ አፍሪካ ንጉሠ ነገሥት ነጋስት ሆነዋል። የሀገሪቱ ስም ቢቀየር እና የንጉሱ ስም ቢቀየር እንኳን ከኢኩኖ እና ከታላቁ አምራክ የቀጠለው የሕጋዊው የሰሎሞን ስርወ መንግስት ንጉሳዊ ስርዓት ታሪክ አብቅቷል ማለት አይደለም።
(原文)

神聖アクスム獣皇国の歴史

メネリク3世は皇弟にして帝国摂政ヨハンネス大公とヘラクレイオス首相に遺言を残した。
遺言には「国号を神聖アクスム獣皇国に改称すること」「ミハイル・メネリクが成人するまでヨハンネス大公が即位して国を統治すること」「君主号を皇帝から獣皇にすること」と記されていた。
ヨハンネスとヘラクレイオスはメネリク3世の意志を継ぐことを帝国議会で発表した。帝国議会・枢密院・元老院は「亡き先帝陛下の意思は絶対なり」とこれを認めた。
ヨハンネス大公は1925年1月1日にヨハンネス5世として即位し国号改称の儀を執り行った。

ヨハンネス5世時代

ヨハンネス5世はメネリク3世と義姉アナスタシアが定めた「君臨せずとも統治せず」の原則に従い国家運営を目指した。元老院長にニコライ二世を迎えヘラクレイオス内閣を続投させた。
ヘラクレイオス内閣によってアクスム全土の近代化は加速し好景気に湧いたが地方の農民や都市貧困層は恩恵を得られずにいた。
2.27政変
アクスム国内の内情に憂いを感じた皇国軍青年将校達はヘラクレイオスら皇国政府首脳部を「君側の肝」としてヘラクレイオス内閣・門閥貴族・メネリク3世時代からの朝臣排除に乗り出した。
青年将校団はヨハンネス5世の専制によって困民救済を求める「アクスム皇道派正義軍」を組織した。皇道派青年将校団は1929年2月27日ヘラクレイオス首相を暗殺した。皇都アディスアベバは叛乱軍と皇国軍との間で市街戦がおき戦火に包まれた。
皇道派青年将校はこの決起でヨハンネス5世の専制体制が確立すると期待したが青年将校の期待とは裏腹にヨハンネス5世は皇国軍全軍に皇道派全将兵を「朝敵にして必ず殲滅せし逆賊」として追討の勅令を発布した。皇道派将校は皇国軍の兵力の前に敗北し捕らえられ全員がヨハンネス5世の勅令で処刑された。
この政変の心労が祟ったかヘラクレイオスの後を追うように1929年4月12日にヨハンネス5世は崩御した。代わりに即位したのはメネリク3世の遺児でまだ7歳のミハイル・メネリク1世だった。

NSAAP時代

1931年~1939年までの8年間はアクスム聖隷保守党政権が続いた。政変の影響で全国土で正常不安定となり各地で諸侯や民族自立を求めて少数民族の叛乱が頻発し経済を停滞させ35年には国立銀行が破綻しデフォルト状態に陥った。
1934年ソマリア大干ばつと1936年エリトリア大地震の影響で飢饉が発生し大多数の国民は飢えに苦しんだんだが貴族や政治家などの富裕層は飢饉の影響が皆無であったため国民は聖隷保守党政権と現体制に不満を募らせた。
そんな危機的状態の中で国民の支持を得た政党が国家団体主義アクスム労働者党NSAAP?だった。
当時のアクスムはロシア人・ソマリ人・ムスリム・コプト教徒・ユダヤ人・ティグリア人が皇国上層部にいた。ドイツ系アムハラ人貴族出身でNSAAP総統アルベルト・フォン・デースラは彼らを「劣等アクスム人」としてロシア系を除く白人・アムハラ人・イラン人・日本人・非ムスリムアラブ人・労働者・奴隷階層を「神聖アメルアリ人」と認定して彼らの指示を取り付け神聖アメルアリ評議会を取り込みNSAAPに統合させ強大化した。
飢饉の影響が収まらない中に1935年〜1937年に起きたアクスム=タンザニア戦争が勃発。
当時の首相「アイレン・ドゥムラー」は戦争を受けて戦時内閣組閣令と全政党挙国一致政党結成令を発令した。NSAAPはどの政党軍隊よりも精鋭である武装突撃隊・武装親衛隊を前線に派遣し皇国軍を助け紛糾する挙国一致議会をまとめたため国民や聖隷保守党以外の政党の支持を得たNSAAPは1939年全国皇国選挙で政権獲得に成功しデースラは政権を掌握した。デースラは自らを「国民の総統」を名乗りデースラは17歳のミハイル・メネリク1世を傀儡としてロマノフ=ソロモン朝の側近を粛清していった。

神聖アメルアリ帝国時代

1941年、デースラは武装親衛隊と突撃隊を率いてクーデターを起こしてミハイル・メネリク1世をパヴェロヴィッチ宮殿に幽閉した。国務省を掌握したデースラは国璽を手にして自らを「帝国宰相」「獣皇陛下の代理人」「ソロモン大帝の後継者」を名乗った。元老院・枢密院の大粛清を断行し神聖アメルアリ評議会議員を両院議員に加えた。
1941年6月には国号を神聖アクスム獣皇国から神聖アメルアリ帝国に改称した。
自らが擁立したヘラクレイオス首相の3女アドリアーナ(16歳)を「ネグサ・ナガスト(諸王の王)」「神聖なる東アフリカ皇帝」に即位させミハイル・メネリク1世と結婚させた。
1939年~1945年の6年間のNSSAP政権は経済成長をもたらし貧困層を救済したが次第に少数民族・反NSAAP主義者・劣等人種を次々と弾圧した。
1942年3月、アクスム=タンザニア戦争に勝利してタンザニアを獲得すると今度はタンザニアの現地人を奴隷にして東アフリカ高速鉄道・ダムを作らせ・鉱山の採掘を行わせた。現地人に過酷なノルマを化して達成出来なければ処刑したため不満を募らせた。
ザンジバル・スルタン国侵攻
1942年7月、これまでアクスム政府やアメルアリ評議会とは中立を保ち彼らを庇護してきたザンジバル=スルタン国に デースラは「(アメルアリ)帝国にいるムスリムを煽り叛乱を起こした黒幕はザンジバル・スルタン国だ。」と宣戦布告をしわずか50分でザンジバルを併合した。
第2次エチオピア内戦
1943年11月デースラはビクトリア湖拡大政策をとり
ルワンダ王国・ブルンジ王国に侵攻してわずか2ヶ月で併合した。ザイール・マラウイ・ザンビアなどの南部地域拡大作戦(オジマンディアス作戦)の発動を帝国軍全軍に指令した。帝国軍は武装親衛隊・突撃隊の指揮下に置かれ帝国軍は旧式装備で戦わせたため帝国軍将兵の不満を買った。
帝国軍は中立派・反NSSAPのアクスム皇国軍を前線に送り込んで戦死させた。元々皇国軍はアムハラ系以外のエチオピア人・ロシア人が元々影響力を誇示しており正規軍人ではない親衛隊の命令に従うことは出来ず南侵を拒絶、ロシア人軍人・反NSSAP主義のアクスム将兵・諸侯などがアクスム十字軍を組織し全国同時蜂起を起こした。
この騒乱の中でミハイル・メネリク1世は幽閉状態から脱出し十字軍・旧近衛師団を率いて1944年12月NSAAP政府軍に攻撃をしかけた。十字軍の前に帝国軍は戦わずして降伏またはそのまま武器を持って十字軍に合流した。
ミハイル・メネリク1世は収容所に入れられた国民を解放しミハイル・メネリク1世は直接欧米諸国に支援を取り付け兵器のレンドリースを受けた。
ミハイル・メネリク1世らのアクスム十字軍とハイレ・ヨシェ元帥率いる反NSSAP帝国軍勢力は合流を果たし1945年2月には主要都市の多くを解放した。
ミハイル・メネリク1世は復位を宣言し十字軍を新生アクスム皇国軍を組織した。
ミハイル・メネリク1世率いる新生皇国軍は1945年3月末に皇都アディスアベバ付近の高地まで進軍した。4月23日はアディスアベバ市内に突入を果たした。アディスアベバ市街地は親衛隊の焦土戦で破壊されたが皇国軍は国民の多くを救済し戦いながら皇都復旧作業にも取り組んだ。
アクスム軍はアディスアベバ市民を助けたことにより市民も皇国軍に参加しNSAAP武装勢力は戦意を喪失し敗色濃厚となり4月3日にデースラ総統と閣僚数名が自決した。
内戦処理
NSAAPは指導力を失い多くの高級幹部がアディスアベバ戦争裁判で処刑された。
大発展の奇跡
1949年、ミハイル・メネリク1世は内戦を反省し国際諸国に協力を求め急速な工業化・鉱山の採掘を行った。保有領域に日本系アクスム人・ロシア系アクスム人・ユダヤ系アクスム人を派遣して土地に合わせた発展政策・特産物を生かした貿易・商業政策を行った結果、アクスムの収益は大幅に上がった。
ミハイル・メネリク1世は更に多民族国家特有の民族意識を無くすため「アクスム人」としての意識を持たせる教育政策を行った。特にソマリアでは氏族意思が強いため緩やかな氏族意識解体と氏族意識を愛国意識に変革する政策を取った結果、1969年までにはソマリ人の氏族意識は愛国意識へとシフトして行った。ビクトリア湖などの湖沼や河川の水を農業用水として使用する計画は1951年から始められ10年後の1961年に完成した。その結果、ブルンジ・ルワンダ・タンザニアはアクスムの食料庫として発展した。
イエメンの開発も積極的に行い国内に6箇所のダムを建設した結果、農業状況が向上した。
これらの発展に寄与したのは日本系移民・ロシア系アクスム人・ドイツ政府の尽力によるものである。
民族意識の統一化により国家意識の均一化がアクスムを今の科学技術大国に発展させた。

構成国の歴史

ソマリアの歴史

エリトリアの歴史

ジブチの歴史

イエメンの歴史

タンガニーカの歴史

ザンジバルの歴史

ルワンダの歴史

ウガンダの歴史

ケニアの歴史

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