だれでも参加できる創作国家グループです。初心者さんも経験者さんも大歓迎です、どんどん雑想しましょう。

ブラガンサ連合王国(ぶらがんされんごうおうこく、英語: Reino Unido de Bragança)、通称ブラガンサは、南米とアフリカに点在する領土を持つ立憲君主制国家である。ブラジルとアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウという歴史的経緯に基づく4つのパイス(「国」)が、同君連合型の単一主権国家を形成している。1910年10月5日革命で追放された旧ポルトガル王家のブラガンサ家が、当時の主要なポルトガル植民地からの支持を得て形成した国家である。成立経緯から当初は「ポルトガル王国」を名乗りポルトガルの正統政権を自称していたが、1976年にポルトガル政府との和解が成立した後はこの国名になった。
ブラガンサ連合王国
国歌憲章の讃歌(Hino da Carta)
公用語ポルトガル語
首都ブラガンシア
政治体制立憲君主制
面積1060万720平方キロメートル
人口約2億7869万人
GDP約1兆5227億USドル
通貨ブラガンサ・レアル

概要

国民の多くは農業従事者であり、なかでもコーヒー栽培が盛んである。また、鉱業も盛んであるが、これは主に金や銀などの貴金属を産出する鉱山があることに由来する。鉱物資源が豊富であるため、それを利用した工業も発展してきている。近年においてはエネルギー産業にも投資しており、石油・石炭採掘のための施設の建設を進めているほか、自動車生産工場なども建設されている。特に自動車に関しては、2040年代には世界市場で50%近いシェアを獲得することを目標にしているとされる。ブラガンサ軍はその規模と士気の点で南米、アフリカのどちらにおいても最強の軍隊の1つと言われるが、装備の老朽化が進みつつあることが課題とされている。また、予算不足のため汚職問題が頻発しているとも噂されており、今後の国防費の増加が期待されている。ポルトガルと敵対していた関係からかつては欧米諸国との関係が微妙であり、陸海空を問わず国産装備を数多く採用しているもの特徴である。
かつては独裁体制下にあったが、現在は穏健な君主による統治が行われており、比較的安定した政治情勢にある。しかし2016年には下院選挙を巡る不正疑惑を理由に、マヌエル・ロペス・オブラドール首相が辞任に追い込まれ、新首相選出のために議会選挙が行われた。その結果、僅差ではあるものの与党であった正義党が過半数を獲得したため、暫定的な新政権が発足したものの、混乱が続いていた。
その後、2020年の下院選挙では野党だった社会自由党が勝利し、新首相が選出された。2022年現在においても政情不安は続いており、首都のブラガンシアでは正義党と社会自由党双方の支持者によるデモが頻繁に発生している。
こうした政情不安にも関わらず、ブラガンサは常に明るい雰囲気と活気に満ちた国として世界から愛されている。最大都市リオデジャネイロは、活気あふれるコパカバーナとイパネマのビーチ、どんちゃん騒ぎの大規模なカーニバル有が名で、この国の人気観光地となっている。また、多くの島から成る国土には豊かな自然が溢れており、世界的に有名な動物保護区であるアマゾン保護地域も存在する。
モザンビークの海岸線にはトーフォをはじめとする人気のビーチが点在し、美しい海を楽しむことができる。250キロメートルにわたり珊瑚島がつらなるキリンバス諸島の中には、植民地時代の建物跡が残るマングローブに覆われたイボ島がある。またアンゴラにも、首都ルワンダを守るためポルトガル人によって建設されたサンミゲルの要塞など、植民地時代の歴史を反映する建物が残る。
さらに、ブラガンサの首都ブラガンシアには博物館が多数あり、かつての栄光を伝える数々の品々を見ることができる。中でも、黄金に輝く王宮の大広間や大回廊といった豪華絢爛な装飾が施された建物は必見であろう。これらのほかにも、ブラガンサ国立博物館には多くの美術品が展示されているため、観光の際にはぜひ足を運んでいただきたい。

主要人物

ブラガンサ国王:ペドロ5世(Pedro XVIII)

年齢は96歳、一人称は余。非常に温厚な性格をしており、国民からは親しみを込めて大熊陛下と呼ばれている。半世紀に渡ってブラガンサ王位につき、内政と外交の両方で手腕を発揮してきた。王太子時代には後方支援要員ではあるが第二次大戦に従軍するなど、近代ブラガンサ史を象徴する人物である。国民との対話を重視し、自身の言葉遣いにも気を配ることから、国民の支持は高い。ラジオやテレビを通じて国民にメッセージを送ることが多く、常に国民のことを考えている人物として評価されている。愛犬家としても知られ、自宅の敷地内にある庭には数多くのペットを飼っているという。
ブラガンサ王国陸軍総司令官であるフェルナンド・デ・サルセーニャ元帥とは仲が良い友人同士として知られている。2人とも旧ポルトガル王家の出身であるためか、お互いのことを愛称で呼び合うことが多い。また、両者共に大のサッカー好きであり、ブラガンサ王国のリーグでも人気が高いクラブのひとつであるFCポルトのファンであることで知られている。
首相:ジョアン・ドゥアルテ(Joan d'Aleste)

年齢52歳、既婚者。一人称は私。穏やかかつ知的な雰囲気をまとった紳士であり、国民からの支持率も高い。元々は外交官を務めていたが、20年ほど前に政界に転身して現在に至る。近年ではブラガンサ軍の装備更新費用捻出のため、経済界への協力を要請するなど、実直な政治家として知られる。左派政党である社会自由党の党首であり、主に国民保険の普及などを推進してきた。彼の政策の目玉は「医療へのアクセス向上」であり、「全ての市民に平等で質の高い医療サービスを提供できるような社会を実現することこそ、我々の使命だ」という信念を持っている。彼がこうした政治スタンスを持つようになったのは、自身も重度の心臓病を患っていた時期があり、家族が自分のために尽力してくれたことがきっかけだという。その後、ボランティアで自分と同じく命に関わる病気を抱える人々を救うために奔走したが上手くいかず、現在のブラガンサの自己責任論の強い世相を思い知り、世の中を変えるために政治家となった。
外相:マリアーノ・サントス(Mariano Santos)

年齢不明、独身。一人称はわたし。眼鏡をかけた細身の男性であり、肌は白く髪の色は灰色をしている。外見上は物静かな印象を受けるが、実はかなりの野心家で、これまでも様々な形でブラガンサのために尽力してきた。特に、国外の投資環境を改善することに意欲的に取り組んでおり、近年はブラガンサと大東亜との間でビジネス上の協力関係を築くことに成功した。
また、彼はブラガンサが誇る世界最高峰の自動車メーカーの一つであるFN社の創業者一族の一員でもある。彼も若い頃は貧しい生活を送っていたが、当時ブラガンサの自動車産業を支配していたFN社の資本力を背景に、国内でも有数の資産家にまで上り詰めた。現在は自身が設立した企業グループの経営に専念しており、国内外の投資家たちを相手に様々な交渉を行っている。また、ブラガンサの文化を世界に広めるために、毎年夏にサンパウロで開催している大規模なイベントの運営にも携わっている。
国防相:ルイス・デ・グスマン(Luis de Guzmán)

年齢不詳、既婚者。一人称は私。褐色の肌をした長身の男であり、非常に寡黙な性格をしている。口数が少なく無表情なため、感情を読み取ることは難しいが、実は心優しい人物であることを国民は知っている。その証拠として、国民の誕生日や記念日になると、決まってプレゼントを用意してお祝いの言葉を述べてくれる。
かつては軍人だったが、戦争終結と同時に前線を退き、以降はブラガンサ王国陸軍の参謀長を務めていた。軍での最終階級は陸軍大将であった。彼は元々陸軍の軍人ではなく、海軍に所属していたが、戦時中に祖国を守るために戦った結果、負傷して退役せざるを得なくなった。その後は、予備役に編入された上で、ブラガンサ王国陸軍に復帰したのだった。
現在では、軍人から政治家に転身して、政治面でも大きな役割を担っている。まず、軍の組織構成の効率化と燃料効率の良い兵器の導入によって国防費の大幅削減に成功するなど、彼の辣腕によってブラガンサの軍事力は大きく向上した。同時に、、軍事費の削減に伴って生じた財源を活用して、ジョアンと協力し国民保険制度を整備・普及させるなど、内政面での改革にも取り組んでいる。その結果、ブラガンサ王国はかつてないほど豊かになり、国民の生活水準も劇的に改善された。

地理

気候

国土のほとんどは低緯度地域の熱帯であり、年間の平均気温は25〜35度程度である。しかし、大陸性偏西風の影響で台風やハリケーンなどの熱帯低気圧が発生しやすく、頻繁に大雨に見舞われるため、自然災害の発生件数は多い。
国土が広大かつ各地に点在していることから、同じ時期でも地域によって気候が大きく異なる。例えばブラジルはほとんど1年中蒸し暑い。一方モザンビークは雨季(10〜3月頃)と乾季(4〜9月頃)に分かれ、乾季は比較的涼しい。アンゴラにも乾季があり、平均気温は20〜24度、最低気温は15度まで下がることもある。
旅行する場合、乾季のアンゴラ南部を除けば、どこでも日本の夏服で充分だ。ただし夏、冬関係なく、雨が3日続くと寒くなる。またブラジルもサンパウロから南は温帯に近くなるので、長袖シャツが必要になる。
マラリアなど熱帯性の病気が猛威を振るっており、特にアフリカでは毎年多くの死者が出ている。そのため、近年では海外からの旅行客の数が減少しつつある。政府は対策として、観光省を設立して、観光地の整備や衛生教育などを行っている。

地形

ブラジルの大部分には、標高300メートルから500メートルの起伏があり、広大な森林地帯が広がっている。その周囲には肥沃な土地が広がり、豊かな自然が育まれている。首都のブラガンシアもここに置かれており、ブラジルで最も美しい都市として知られている。また、ブラジルの高原には大小様々な湖が存在し、アマゾン川の支流であるタパジョース川やシングー川などが注いでいる。
アンゴラは海岸沿いに南北に伸びる平野部、中南部に位置する標高1500mを超える中央高地、標高500m〜1000mの丘陵地から成る。地域の南にはナミブ砂漠が広がり、北と東に広がる山地はコンゴ共和国との国境となっている。
モザンビークは沿岸部に平地が広がる一方で、内陸部は険しい山々に囲まれている。また、この国の中央部は熱帯雨林に覆われているが、北東部はサバンナになっている。
ギニアビサウは美しい島々ビジャゴ諸島で有名である。大西洋の宝石と呼ばれ、数多くの島が存在する。
人口は2万5000人ほどしかいないが、その7割は20の有人島に集中している。

地方行政区分

ブラガンサの地方行政区分は、複雑、重層的かつ不均質で、それぞれのパイスごとに全く異なる区分が適用されている。このため、地方自治体の数は非常に多く、全63の州がある。
ブラガンサは同君連合体制の単一主権国家であるため、全てのパイスは平等な立場にあり、パイス同士で優劣を決めることはないが、事実上はブラジルが本国のような立場にある。
ブラジルには独自の議会や政府はない。25州に分けられ、それぞれに知事がいるものの、権限は制限されている。各州は、州知事と州議会によって運営されている。しかし、実際にはブラガンサ政府の意向が強く反映されることが多く、ブラガンサ政府の命令に従うことを拒めない状況が続いている。
アンゴラは立法府であるアンゴラ議会と、行政庁であるアンゴラ政府がある。18の州に分けられ、それぞれ首長が置かれているが、実質的にブラジルの影響下に置かれている。
モザンビークはアンゴラと同様に国民議会と行政府があるが、こちらは各州の代表からなる連邦議会が運営しており、立法権を持っている。また、憲法によりモザンビーク大統領が置かれ、大統領が最高責任者としてパイスの政治を司ることになっている。11の州を持ち、州知事がその上に立つ。
ギニアビサウは国会に相当するギニアビサウ評議会と、行政庁である首相が率いる内閣がある。9つの州を持ち、それぞれに知事と総督が置かれているが、実質的にはブラジルの強い影響下に置かれている。

主要都市

ブラガンシア

ブラジル中部、標高約1100mの高原地帯に建設された計画都市。人口は309万4325人で、世界規模の都市圏を形成している。
ブラガンサ王国の首都であり、国内第2の都市でもある。
元々は鉱山の町だったが、その後の発展によって工業都市としても発展している。今ではブラジル有数の世界都市である。
地下鉄や高速道路が整備され、国際空港もあるため、国内外を問わず多くの人々が訪れる。
サルヴァドール
ブラジル北東部の大西洋岸にある港湾都市。市域人口は約294万人で、ブラガンサ第3の都市である。
かつては奴隷交易の拠点となっていたが、現在は自由貿易港として機能している。
ブラガンサ海軍の本拠地があり、海軍士官学校が建設されている。
フォルタレザ
かつては奴隷解放運動の拠点にもなった都市で、ブラジル東部の熱帯林に覆われた海岸地帯に位置している。市域の人口は270万人を超えており、ブラガンサでも4番目に大きな都市である。
かつて奴隷貿易が行われていた場所であり、現在でも黒人が多いことで知られている。市内には奴隷制廃止運動家の記念碑が建てられるなど、奴隷制度に対する抵抗が強い地域として知られる。
また、市内の博物館には、植民地時代の奴隷売買に関する資料が展示されている他、奴隷貿易の歴史を紹介する展示コーナーが設置されている。
ルアンダ

アンゴラの中心都市で、約450万人の人口を擁し、ブラガンシアを凌ぐブラガンサ最大の都市である。アンゴラの心臓部とも言える都市で、経済の中心地ともなっている。アンゴラの行政機能の多くを集中させており、特に重要度の高い行政施設が密集する「官庁街」と呼ばれるエリアには、官庁のビルが立ち並ぶなど、極めて近代的かつ洗練された街並みが広がる。
また、市内に国会議事堂や最高裁判所などの司法機関が置かれているほか、大統領官邸なども置かれている。近年では郊外に巨大ショッピングセンターが建設されるなどして、その存在感を増しつつある。かつての植民地時代の建物が多く残る一方、近代的な高層ビル群が建ち並ぶという奇妙な光景が見られる町としても知られている。アフリカでは最も近代化が進んでいると言われている。
マプト
モザンビークの中心都市。同国の南端に位置し、単独で州を構成する。天然の良港で、古くからポルトガル領東アフリカの貿易拠点として栄えてきた。そのため、旧市街は歴史的な建物が数多く残っているものの、一方では新しい建築物も多く見られる。また、旧市街地の周辺には新市街が広がり、ホテルやレストラン、バー、カジノなどが軒を連ねる。市内を鉄道が通っており、多くの外国人が利用する。総人口は約100万人で、ブラジルの大都市と比べると少ないものの、アフリカではそれなりの規模を誇る。
モザンビークは熱帯雨林に覆われているが、この地区は比較的降水量が少ないことから、比較的都市化が進んでおり、中心街には巨大なショッピングモールがある。
ビサウ
ギニアビサウ共和国の中心都市である。ギニアビサウ最大の都市で、同地の政治・経済・港湾の中心。大西洋に通ずるジェバ川の河口に位置し、ギニアビサウ最大の商業港であるギニアビサウ港を擁する。ギニアビサウは石油と天然ガスに恵まれた国だが、この港から輸出される原油は同国のエネルギー産業を支えている。ギニアビサウは内陸の国であるため、原油は貴重な外貨獲得手段となっている。町の周囲にはマングローブ林が広がり、美しい風景が広がっていることで有名。人口約37万人を抱える。
リゾート地としても人気があり、観光客も多く訪れる。かつては小さな漁村であったが、現在ではギニアビサウ最大級となる国際空港と、いくつもの大型商業施設が建設されている。また、首都マナウスからは鉄道で結ばれていることもあって、国内各地からのアクセスが容易になっている。

交通

南米とアフリカに跨がる国土を持つことから、航空、海運網が発達している。とはいえ、国土も広大なブラジルでは陸運も大きな役割を担っており、鉄道の総延長は約4万8300kmに及ぶ。
ブラジルの主要な道路は高速道路規格となっており、総延長10万キロ以上に達する。都市部などでは立体交差化されており、信号もほとんどない。また、高架道や地下道も整備されているため、渋滞はほとんどない。ただし、地方の田舎へ行くにつれて交通量が増える。鉄道は幹線だけでも20路線あり、世界でも有数の鉄道網が整備されている。鉄道は電化されているため、長距離列車であってもディーゼル駆動ではなく電気駆動方式が用いられる。なお、国内のほとんどの駅は自動改札機が設置されているが、地方の一部の都市においては導入されていない駅もある。
アンゴラでは鉄道網の整備が遅れており、まだ一部しか開通していない。陸運の中心は自動車やバスであり、トラックも主要な輸送手段として用いられている。それもあってか、アンゴラの主要幹線道路はすべて舗装されている。高速道路では最高速度が120〜130km/hに制限されているが、それ以外の一般道路の法定速度は30〜40km/h程度となっている。
モザンビークにおいても鉄道網は整備されておらず、主な交通手段は車やバイクが用いられている。しかし、近年は内陸部まで開発が進んだこともあり、新たに地下鉄を建設する計画が持ち上がっている。道路については、モザンビークの場合は沿岸部には高速自動車道路が整備されており、主要都市同士を結ぶ大動脈として機能している。都市間の移動には飛行機を利用することが多い。
ギニアビサウ国内では鉄道が開通しておらず、国内の移動は主にバスが用いられる。また、国営のタクシー会社も存在し、旅行者にとっては便利な存在。
ブラガンサを構成する4つのパイス間の移動や輸送は、主に貨物船やフェリーによって行われている。また、ブラガンシア - ルアンダ間には定期直行便が就航している他、季節によっては週に2度ほど、チャーター便が運航されることもある。空路もあり、こちらはブラガンシアやムベレ島、ナザンポートといった周辺の島々との間に定期便が就航している。また、モザンビークの沿岸地域には、複数の大陸間航路を有する旅客会社が拠点を構える。こうした会社はブラガンシアやマプトなど、他の都市とを結ぶ航空便も運行している。

歴史

ブラガンサ家のポルトガル追放

1910年、ポルトガルで共和主義革命が勃発し、王家ブラガンサ家はイギリスへの亡命を余儀なくされた。しかし王弟のジョアン・デ・カルヴァーリョは、ポルトガルの王政維持のために共和政府と対立することを決断し、ブラジルへ渡った。彼はそこで世界へ王政の存続を宣言し、以後ブラガンサ家の亡命政権としてブラガンサ王国が誕生することとなる。この時点では、あくまでポルトガル王家の亡命政権であったため、国名はポルトガル王国だった。
ジョアンはブラジルを始め、アンゴラやゴア、東ティモールなど、ポルトガル植民地のほぼ全てから支持を獲得し、ポルトガル本国を除けばポルトガル植民地帝国の大半を手中に取り戻した。そして彼の呼びかけに応じて、次々と王族や貴族がブラジルへ移住した。こうして、ブラガンサ家はポルトガル本国を追放されながらも、実質上は依然として王位を継承する立場にあった。
しかし、肝心のポルトガル国王だったマヌエル2世は民意に反して玉座に留まり続けることを望まず、共和制への移行を消極的に承認する姿勢を示した。そこでジョアンは勝手にジョアン7世を名乗り、兄の廃位と自らの「ポルトガル王」即位を宣言して、事実上の支配者となった。彼は軍備の整備と近代化を進めつつ、一方でポルトガルに強い影響力を持つイギリス系資本を味方に付けるべくロビー活動を行った。その結果、イギリスの支援を受けることに成功する。また、ドイツとフランスにも接近を図った結果、両国から支援を取り付けることに成功した。
こうした支援を背景に、ジョアン7世はブラジルやアンゴラの国内に残る共和主義者の掃討を進め、同時にリスボン奪還の準備を進めた。こうしてポルトガルは分裂することとなり、その対立構造は長く続くことになった。

第一次世界大戦

こうしてポルトガル本国の共和政府にも対抗しうる準備を整えた亡命王政府は、第一次世界大戦が勃発するとこれを本国奪還の好機と捉えた。イギリスはジョアン7世に支援を行ったとはいえ、国家承認自体はポルトガル本国を支配する共和政府に与えていた。イギリスと「ポルトガル」は軍事同盟の関係にあったため、共和政府は連合国陣営で参戦する。
そこでジョアン7世は中央同盟に味方して参戦し、共和政府とその同盟国であるイギリスに対して宣戦布告を行うとともに、大西洋を越えてポルトガルへ軍を進めた。そしてポルトガル南部のアルガルヴェに戦線を形成し、共和政府軍とイギリスを相手に戦ったものの、敗北を重ねる結果となった。特にイギリス軍が攻勢を強めたことで、いくつもの部隊が包囲殲滅され、多くの兵士が犠牲になった。
また、一部の部隊を西部戦線に派遣したが、この部隊はフランス軍と交戦して多大な損害を出した。さらにマカオやアンゴラにおける戦況も悪化してしまう。こうして、第一次世界大戦で亡命王政府は敗戦国になってしまう。
講和会議の結果、亡命政府の存在自体はかろうじて許されたものの、マカオや東ティモールなどかなりの実行支配地を共和政府へ渡す事になった。その後、ジョアン7世は残された4地域、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビザウを対等な構成体として国家を再編し、名目上はポルトガル王国を名乗り続けたものの、南米とアフリカを領土とする国家としての側面が強くなっていった。

腐敗と独裁

ジョアン7世は1921年に死亡し、息子のアフォンソ7世が即位した。彼自身は聡明で穏やかな人物だったが、彼は父を超える強権的な政治体制を取ることになった。ジョアン7世の死によって、ブラジルでは共和派勢力が勢いを取り戻しつつあったのだ。その押さえ込みに、アルフォンソ7世は躍起になっていた。そんな彼が取った手段こそ、ブラジル国内の王党派勢力を国外追放するという荒療治だった。これは事実上の政治弾圧であり、しかも国際的に批判されるようなやり方だったため、国際的な反発を招いた。中でもイギリスは強い不快感を示し、ブラガンサ家への支援を打ち切ったほか、ブラガンサ家との貿易の禁止措置すら取るほどだった。また、アメリカや日本といった列強諸国からも非難された。それでも、当時のブラガンサ家は苦境に立たされており、生き残るためにはなりふり構っていられなかったのだろう。結局、彼らは国際世論を無視してでも、強引な手法を取らざるを得なかったのかもしれない。
ジョアン7世の腹心だった軍人のアウグスト・エバンゲロス・カリニャンは、国内の支持を得るため、積極的にブラジル各地で演説を行って国民に訴えかけた。彼は巧みな弁舌とカリスマ性で支持を集めたものの、その一方で軍の内部で派閥抗争を引き起こしてしまう。その結果、陸軍内の強硬派はクーデターを画策し、カリニャンを暗殺してしまった。この事件をきっかけに、陸軍の穏健派と急進派の対立が激化していく事となる。
そして急進派の筆頭格オスカル・アントニオ・デ・リマ大佐が頭角を現し、アルフォンソ7世の承認を得て陸軍の実質的な指導者になった。彼は陸軍内での影響力拡大に成功し、ついには軍政を敷くことになる。
アントニオは、それまで亡命王政府において行ってきた議会制を廃して国王独裁への移行を主張し、それを受け入れられない勢力に対しては、強硬な態度で臨むようになる。そして1926年には、内戦寸前にまで事態は悪化していた。

寛大王の統治

一方、王室内では、以前から共和主義的傾向が強かったフランシスコ・ブラガンサが、次第に発言力を強めていった。彼は、軍事政権による専制統治の危険性を訴え、それに反対する議員たちを支援していった。そして1927年1月、ついに彼はクーデターを起こした。その結果、軍事政権は崩壊し、アルフォンソ7世も失脚する。
フランシスコはフランシスコ1世として即位した。しかし、彼の時代になってもブラガンサの政治状況は改善されず、むしろ悪化した。
フランシスコ1世は寛大王と呼ばれ、議会制民主主義の維持に尽力したが、政情不安が続いたブラガンサでは過激な主張と賄賂が飛び交い衆愚政治と化した。
追い打ちのように世界恐慌が始まると、経済危機により失業者が増加し、国民の不満が高まった。しかし、そうした中で、フランシスコ1世とその側近たちは私財を投じて民衆に食料や衣服を配るなどの施策を講じ、支持を得ようとした。その結果、多くの市民は彼らを支持したものの、一方で軍部には疎まれた。
1933年、ついにフランシスコ1世は軍部によって暗殺され、長男のマヌエル2世が即位した。

軍閥抗争時代

こうしてブラガンサは、再び軍事独裁政権が誕生することとなった。マヌエル2世を傀儡とした軍政府は親英路線を取ったものの、その政策は強圧的なものとなった。そして、国内の反政府運動を抑えるべく、次々と弾圧を加えていった。また、民間資本の国有化などの反動的な政策を取り続け、海外からの投資受け入れも遮断した。
こうした軍政府に対して、何人かの高級軍人や政治家は強く反対し、各地に軍閥を形成して軍政府の統制から離れていった。
ブラガンサは分裂状態となり、その中でいくつかの軍閥が結びついて、やがて複数の軍閥へと分化していく。そして最終的には、それぞれの軍閥が対立関係に陥っていく。こうして形成されたのが、ブラジル北部を中心とした北ボルポ、アンゴラのルアンダを中心とするポルトゥカ、モザンビークを中心とした東ボルポである。
ブラガンサの軍事政権は、これら3つの軍閥から攻撃を受け崩壊したが、その後も3軍閥の対立関係は続き、またポルトガル本国の共和政府との間は深刻なものとなった。
また、ポルトガル領のサントメ・プリンシペをめぐって、ポルトガルの植民地軍とポルトゥカ軍閥軍が衝突し、大きな戦いに発展した。この紛争は最終的に、ブラジル人の傭兵部隊を率いたサントス・ドゥモン将軍の活躍もあって、ポルトゥカ軍閥が戦いに勝利した。
第二次世界大戦が始まっても、ブラガンサは国内の抗争に終始して、大戦関わることはなかった。

統一と発展

1944年、ポルトゥカ軍閥が首都ブラガンシアを制圧し、ようやくブラガンサは統一された。
ポルトゥカ軍閥は政党として社会自由党を組織し、複数政党制を採用して議会を開いた。これにより、ブラガンサの民政化が進むことになった。
その後、ブラガンサでは反共主義を維持しつつ、国内開発に力を入れた。特に、軍閥抗争によって大きな被害を受けていた農村地帯の復興に注力した。また、農地改革と集団農場の導入などによって、農業生産の向上を図った。その結果、1950年代後半には国内の食糧不足が大幅に改善された。
また、ブラジル最大の港湾都市であるポルトアレグレを、ブラジルの工業化を推進する拠点として整備し、自動車産業などを発展させるとともに、港湾設備の近代化を進めた。さらに1960年代から70年代にかけて、ブラジル全土で大規模な公共工事を行い、都市インフラの整備を行った。
その一方で、汚職問題も発生していた。ブラガンサは国内の開発のために多額の債務を抱えており、それを解消するために、汚職が横行していたのだ。

現代

1980年代に入ると、ブラガンサ国内ではインフレが進行し、経済情勢は急激に悪化していった。そして1986年には、ハイパーインフレーションが発生した。これは世界最悪レベルの超インフレであり、経済破綻の危機を迎えた。そのため、銀行や証券取引所が次々と閉鎖されていき、ブラガンサの金融システムは大混乱に陥った。
しかし、1989年にブラガンサで政変が発生し、正義党のフェルナンド・エンリケ・カルヴァーリョ・ドス・サントス大統領が誕生した。彼は新自由主義的経済政策を打ち出し、市場原理に基づく自由競争を促進し、通貨の発行量を大幅に減らすことによってインフレを抑制するという大胆な金融政策を実行した。その結果、一時はブラジル中央銀行が機能停止に追い込まれるほどの大混乱を引き起こしたインフレは収束し、1990年代には徐々に景気回復の兆しが見え始めた。
1990年代末には、国内経済の立て直しに成功し、また対外貿易も活発化していったことで、ブラガンサは成長軌道に乗りつつあった。
政治も社会自由党と正義党による二大政党制が安定し、民主的な政権運営が行われていた。
現在でも、政情不安ではあるものの

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます