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バルカン反乱(別名:バルカン蜂起)は、1883年に起きた反乱。
民族主義が高まったバルカンでの民族自決を求めた蜂起で、現在のバルカンではあまり蜂起が必要ではなかったという者もいれば、必要であったする者も居て、賛否が分かれる。
バルカン反乱
交戦勢力
オスマン連邦セルビア反乱軍
モンテネグロ反乱軍
ブルガリア反乱軍
ギリシャ反乱軍
結果
オスマン連邦が勝利、バルカンでの過激な民族主義の沈静化。
死者
48万7000人17万5000人
5万3000人
23万4000人
20万2000人
両陣営合わせて115万1000人

要因

元々、トルコ人にバルカンの全民族を統治することは難しかった。
1879年のバルカン民族主義者帰国の際は、オスマンに逆らっても良いことはないと信じていた住民らは特に行動を起こさなかった。
だが、1881年のバルカン独立を求めるデモをオスマン政府が軍隊で弾圧*1したことで、バルカンはオスマンからの独立に世論は傾いた。
その結果、独立ムードの中でBLAが反乱を煽ったことで、バルカンの民族らは蜂起した。

概要

バルカン反乱(バルカン蜂起とも)は、1883年4月22日に起きた反乱。
バルカンの反政府組織、バルカン解放軍(BLA)が民衆に蜂起を呼びかけた。

経過

蜂起

BLAの元に集まった民衆は、1883年4月22日にセルビア統治庁、ギリシャ統治庁、ブルガリア統治庁、モンテネグロ統治庁を一斉に攻撃した。
この攻撃でバルカン統治は混乱し、すぐにオスマン連邦政府に連絡が入った。
オスマン連邦政府は、すぐに軍隊を派遣。
BLAと戦闘に入った。
BLAは当初モンテネグロ全土、北セルビア、南ギリシャ、東ブルガリアを支配したが、まともに訓練を受けてない民兵ばかりなので、すぐにオスマン連邦正規軍に押されて行った。

BLA押され気味に

最初に制圧されたのはセルビア反乱で、ベオグラードでは激しい抵抗を受けたがなんとか撃破した。
次にモンテネグロが制圧され、オスマン軍は主力をブルガリアに回した。
この時に、ギリシャ反乱軍にアテネを占領されたが、主力部隊の一部がギリシャに回されアテネは奪還された。

反乱鎮圧へ

ブルガリアではセルビア以上の激しい抵抗を受けたが、オスマン軍は北のブルガリア反乱軍を殲滅し、東から浸透し包囲した。
多くのブルガリア反乱軍は降伏し、主力はギリシャへ回った。
主力全てでギリシャを攻撃したが、ギリシャ反乱軍はゲリラ戦を展開し多くのオスマン兵が亡くなった。
オスマン軍は南ギリシャの南端に上陸し、ギリシャ反乱軍を挟み撃ちにした。
東西に分断されたギリシャは、西は殲滅され、東の反乱軍は降伏した。

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